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社会保障国民会議が中間報告を発表〜慎重な表現の中に衝撃的な内容も〜
●  社会保障国民会議の中間取りまとめ
  今年1月、福田首相の肝いりでスタートした社会保障国民会議が、6月19日の第7回会合において中間報告および各分科会の中間取りまとめを行なった。言うまでもなく、わが国における社会保障の現状は大きな転換点に入りつつあり、国民の安心感が大きく揺らぐ中で、社会に様々なひずみをもたらしつつある。年金や後期高齢者医療にかかる問題がこれほど大きな国民的議論となったのも、国民の潜在的な危機感が沸点に達する中で、極めてナーバスになっているから他ならない。
  今回の中間報告をざっと眺めてみてみると、その全体構成や、一つひとつの細かい表現において、「ナーバスになっている国民意識」を刺激しないよう、極めて慎重になっているという印象が最初に伝わってくる。いわゆる気配りを心情とする福田内閣らしいといえばそれまでだが、そのことが却って国民のフラストレーションを高めてしまうのでないかという懸念が拭い去れない。
●  共助と公助の仕組みの関係
  実は、表現的には慎重な一方で、今回の中間報告をよく掘り下げてみると、所々でかなり衝撃的な内容も散見される。恐らく、社会保障制度についての知識が乏しい人でも、勘が鋭い人であれば、「いったい福田さんは何をしようとしているのか」という思いを抱き、それがまたフラストレーションをためてしまうという悪循環にもなりかねない。
  例えば、国民にとって関心の高い医療と介護の分野における分科会の取りまとめを見てみよう。読んでみて個人的に引っかかったのは、以下の文章である。
「個人の生活を成り立たせていく基本的責任はその人自身にある、という意味での『自立・自助』を基本に置き、次に、個人の選択・自由意思を尊重しながら個人の抱える様々なリスクを社会的な相互扶助(=共助)のしくみでカバーしていく、さらにそれでもカバーできない場合には直接的な公による扶助(=公助)で支える、という、『自立と共生』の考え方にたって様々な制度を構築していくことが必要である」(第二分科会「サービス保障〔医療・介護・福祉〕」中間とりまとめより)
  昨今、地域福祉などにかかる様々な報告書において、この共助と公助の仕組みの関係については、幾度となく触れられてきた。例えば、介護サービスを重度者に集中的に振り分ける一方で、軽度の利用者に対しては中高年ボランティア組織による支えあいサービスを投入するなどというものだ。
  だが、過去の様々な報告書類を見ても、「まず共助ありきで、足りない部分を公助でカバーする」という順列をここまではっきり打ち出したケースはあまり記憶にない。日常的な困りごとに対しては、まず地域住民の支えあいという資源をまず活用し、それでダメなら初めて公のサービスが投入されると言っているのに等しいわけである。
  これは、わが国の社会保障の考え方を劇的に転換させた考え方だと言ってもいいだろう。さらに言えば、アメリカのような市民活動による扶助、民間保険などの市場の契約的な扶助によって社会保障の大半をカバーしていくという発想に極めて近い。
●  現場の実情
  では、現場の実情はどうなっているかといえば、先だってある都市の地域包括支援センターの職員と話しをする中で、「介護や医療という縦割り的なサービスではカバーできない、多重債務による経済問題や家族間の虐待問題などが複雑に絡んでいる状況がここ数年で激増している」という声を聞いた。
  つまり、高度に法律的な問題や、心理カウンセリングなどの高い専門性を必要とする事例が、一般世帯を覆っているというものである。こうした状況下では、市民レベルによる支えあいの介入そのものが難しいケースが増えている可能性がある。
  むしろ、いま国として打ち出すべきことは、従来の公助の仕組みを再編成しながら、そこに市民による共助の仕組みを組み込んでいくという考え方ではないだろうか。安易に共助を先に持ってくることは、むしろ問題解決までの道筋を困難にし、地域社会に新たな混乱要因を生み出す危険もある。そのあたりについては、もっと慎重な検証が必要だろう。
  公助にかけるお金がないという発想だけで、共助を先に立たせるという流れは、福田政権の首を自ら締めることにもなりかねない。
(田中 元 医療・福祉ジャーナリスト)
2008.06.30
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